fc2ブログ
2011.03.20 「無力」…。
18日早朝、議員有志と市民の方々の協力で、ワゴン車(こらっせ新庄所有)いっぱいの物資を積んで南三陸町に向かった。
賛同いただいた皆さんからは、米、灯油、生理用品、味噌、醤油、飲料水700本、下着靴下衣類などなど山ほど拠出してもらい、往復するための軽油までもらって行って来た。
 17日に、やっぱりひとりでも行く!と決めた時、他の議員や職員からは「待て、慌てるな」「そもそも物資はあるのか」「どこに向かうのか」などなど、様々な忠告をされた。でも「俺はまず、行く!」と強行した。
 そしてすぐ片っ端から電話をかけまくり、救援物資をかき集めた。ワゴン車が物資で満杯になったのは夜10時を過ぎたあたりだったか。
 準備を整え、出発できたのは翌朝6時半、とにかく「遅すぎ」の感は否めなかったが、三陸目指してアクセルを踏み込んだ。
 「とにかく行ける所までいくぞ!」と同行を快諾してくれたサイトウくんに気合いを入れたが、これは彼に向けたのではなく、気の小さな自分に気合いを入れたのだ。

 被災現場は、報道で知ってはいたものの、実際に行って見ると、呆然と、そして愕然とした。多くの犠牲になった方々に手を合わすことすら忘れ、一瞬にして消失した街をただ見渡した。所々には警察、自衛隊、消防士の皆さんによる不明者の懸命な捜索活動の姿があった。「この場で、俺たちに何ができるのか」あまりの惨状に、自分の無力さを思い知らされた。本当にこの地は復興出来るのか、出来るとしたら、どうやるのか、そしていつまでかかるのか、今後被災された皆さんをどう支援していくのか、などというような事が全く何も考えられないほど、凄まじい状態だった。

今回僕のわがままを聞いて、拠出してくれた皆さんには本当に申し訳ないが、米8俵、水300リットルを持って行ったところで、何の助けになったのか、よくわからなかった。帰路は自分の「無力さ」が情けなくて情けなくて、とても辛かった。

 ただ、今回ムダじゃなかった、と思えたのは、自分が無力だという事を、痛切に感じる事ができた事。生意気な事ばかり言って、大した事は何も出来ない。やるには「みんなの協力」が必要だと言う事、それがわかった事だ。
  また物資が集まったら行ってくる。ほんの僅かな、微々たる支援だけど、行ってくる。行ける限り行ってくる。自分の仕事すらちゃんとこなせないけど、行く。もう来なくていいと言われるまで、行く。
 これからは、長い長い支援期間が必要だ。特に隣県である山形県の役割は非常に重要になってくるはずだ。それなのに「初動」が遅すぎる。地震のあと、県から「待て!」と言われて何日が経過したのだ。県内の停電などの対応に追われ、手が回らなかったのかもしれないが、奥羽山脈の向こう側には「生死」に関わる住民が何万人も助けを求めていたのだ。国の支持待ちか何か知らないが、遅すぎる。
 新庄市も県の支持待ちかどうか知らないけれど遅すぎる。わんこはかわいいが、僕はわんこじゃないから「待て」と言われても、どうしても従えない事がある。
今回のような「非常事態時」には隣県の役割をちゃんと認識して「まず、動く」ことが、人の道として当然のことではなかったのか。

 なにはともあれ、支援物資を提供していただいた皆様、本当にありがどさまでした。おかげ様で被災された皆さんから、多くの感謝の思いと希望の笑顔をいただくことが出来ました、僕はただ物資を運搬しただけなのに…。
 新庄市では、これからどんどんやってくるだろう被災者の皆さんの受け入れ態勢を真剣に進めています。そのための物資もスポーティアにどんどん集まり始めています。状況によっては数百人から1万数千人を受け入れる用意をしなければならない、と市長も申していました。是非その覚悟で受け入れ体制を整えたいものです。

 これからも被災された皆さんへの、物資の供給や復興へのボランティア支援、そして受け入れの支援、みんなで支援していければと思いますので、長期間の、出来うる範囲でのご協力をお願いします。


※三陸で被災された方々への物資を、今ごろになって、輸送してきた人間もいれば、福島第一原発には、自分の命を賭け、まさに「日本の救世主」として危険すぎる任務を遂行した人間たちがいる。
 …僕も、彼らのような偉大な事はできないまでも、「まねごと」くらいは、ちゃんとできるような人間に、早くなりたいと思う。


今回、支援物資等のご協力をいただいた皆さん

  有)アドバンビル様、キッコーセン醤油様、石井昭一様、斎藤智博様、吉野敏充様、そば処いせき様、ドッグイア様、清水様、星川様、佐藤様ほか、多数の皆様


スポンサーサイト



Secret

TrackBackURL
→http://bakubakubaku.blog59.fc2.com/tb.php/378-0db1ccd8